ワールドカップラグビー日本招致の立役者
またまたワールドカップラグビー日本大会についてです。
とうとう始まりましたね。
初戦のロシア戦は、松島選手が日本代表初の3トライを決め快勝、幸先の良いスタートを切りました。
この週末はあちこちテレビでラグビーの特集をやっていて、興味深く視ていました。
このブログにも書きましたが、同志社大、神戸製鋼、日本代表キャプテンだった平尾誠二氏がとりあげられました。
そして、このワールドカップ日本大会開催を実現させた立役者であるラガー外交官、奥克彦氏の特集もやっていました。
平尾選手のことは知ってる方も多いと思いますが、奥克彦氏を知っている人は少ないんじゃないでしょうか。
奥克彦氏はこのワールドカップラグビー日本大会の実現に文字通り奔走した外交官でありラガーマンでした。
奥氏は高校時代よりラグビーを始めて花園大会に出場し、早稲田大でレギュラーになり活躍しているさなかに外交官になりたいと、2年の夏合宿で泣く泣くラグビーを辞めてしまいます。
そして、猛勉強してなんと在学中に外交官の上級試験に受かります。
外交官になりオックスフォード大に留学中再びラグビーを始めるようになり、「日本でワールドカップを開催したい」という夢を持つようになります。
そして、外交官の人脈を駆使して、ひとり精力的に招致活動を働きかけていました。
2000年4月、外務省の国連政策課長になった時、ちょうど内閣総理大臣に就いていたのが森喜朗氏で、奥氏にとって、早稲田ラグビー部の先輩にあたります。
そこで、奥氏は、首相官邸の森氏のところに行っては、「自分の外交官であるいろんな人脈を使ってください」と、「ラグビーワールドカップ大会の日本招致」を訴えつづけました。
ところが、2003年11月29日、奥氏は復興支援のためロンドンからイラクへの長期出張中、イラン北部を車で移動中に銃撃され、45歳で突然この世を去ってしまいます。
その後、森喜朗氏は奥氏の遺志をうけつぎ招致の先頭に立ち、その6年後の2009年7月28日、この2019年のワールドカップラグビー日本大会の開催が決まったのです。
テレビの番組の奥克彦特集の最後は、早大ラグビー部監督だった清宮克幸氏のインタビューでしたが、奥克彦氏が生前よく言っていた言葉というのが
「出来ないって言うな!」
「今やらなくていつやるんだ!」
だったそうです。
さすが、最初にワールドカップラグビーを日本に招致しようと動いた人の言葉は重みがあります。
無念にも平尾誠二氏とラガー外交官の奥克彦氏はW杯日本大会をみることなくこの世を去りましたが、
このワールドカップラグビー日本大会開催のうらにはこの二人がいたんだということを知るとプレーを観る目が変わってきますよね。
(のげ)
2019/10/18